Voicy#02 「愛される」が存在しない哲学の話

こちらのブログでは、平日毎朝8時に更新しているVoicyの文字起こしを投稿しています。

視覚優位の方や、文章の方が内容を落とし込みやすい方は、ぜひこちらも併せてご覧になってください^^

話し言葉に合わせて、改行が多くなっております。そしてラフでございます。ご了承くださいませ。

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皆様おはようございます。佐藤ありさです。

このVoicyでは、平日朝8時に自分と人をゆるく愛して

社会のいろんな枠組みから自由になっていくための

「愛するための哲学」を発信していきます。

 

 

ということで今日は

愛されるという事実は存在しないから

あまりこだわらなくていいんですよ。

 

というちょっと危険な香りがする

お話をしようと思います。

 

 

皆様は

愛したい派ですか?

愛されたい派ですか?

 

なんとなくのイメージですが

 

愛され彼女や

愛され妻になりたいと

思う人は

きっと多いのだと思います。

 

愛されたいのに

でも愛されてる実感がなくて

不安になってしまう、というご相談は

よくいただきますが

 

私のラジオを聞かれる皆様でしたら

そもそも愛される、という

概念からぜひ疑ってみていただきたいんです。

 

今日は

愛される、という概念から

解放されて

楽になってしまう哲学のお話を

してみますね。

 

 

・・・

 

デカルトの思想をお借りして

お話をしましょうか。

 

デカルトはフランスの哲学者で

我思う故に我あり、という有名な言葉を残した人なのですが

この意味を聴いたことはありますか?

 

 

これは

目の前の全てを疑ってみたとき

それが本物かどうかの証明はできない。

 

でも今、それを疑っているという自分の意識だけは

本物だとわかる、という意味です。

 

 

もう一回言いますね、

 

私たちが今見ているものは

よくよく考えてみたら

何も本物だと証明できません。

 

例えば

目の前にりんごがあったとして

そのりんごが赤いというのは

自分の目から入った情報が処理されて

意識がこれは赤ですね!と思うから赤いんですよね。

 

それで、りんごを持ったとしても

持った!という自分の手の感触があって

それを感じる意識があるから

持ったことになっています。

 

これ、どこかの感覚器官が

バグっていないか

自分で確かめること、できませんよね。

 

じゃあ人がいれば

確かめられるのか、というのも

 

近くに人がいて

このりんごは赤だね〜って一緒に話しても

その人が見ている赤と

自分が見ている赤が

同じ赤だとは確かめることができません。

 

相手の目に入って

りんごを見ることはできないですからね。

 

となると

もう、どこからどこまでが本物なのか

私たちは知ることができないんです。

 

 

こう言われると

本物ってなんなんだろう?

真実ってなんなんだろう?って

思いませんか?

 

本物ってわかんないけど

でも、私が今これを考えているとか

信じてるとか

疑っているという

 

自分の意識だけは

確かに今あるとわかるわけなんですよね。

 

 

我思う故に我ありって諸説ありますが

大体そういう意味です。

 

 

全部を疑ってみて

どれもが真実だと確かめようがないとしても

自分がそれを疑っていることだけは

信じられるね、というお話しでした。

 

・・・

 

ここまで聞かれていかがですか?

 

確かにそうですよね。

 

つまり

私たちが普段本物だと思っていることって

実はかなり曖昧なんです。

 

となると

考えてみていただきたいんですが

 

例えば

あなたのパートナーが

あなたのことを好きだということを

どうやって証明することが

できるでしょうか?

 

もし、付き合って3年だとか

結婚しているとか

好きだよって言葉で言ってくれたり

プレゼントをくれたり

行動で表したとして

 

その思いが本物だということを

私たちはどうやって

確かめることができるのでしょう?という

疑問はありませんか?

 

ぶっちゃけ証明できないんですよね。

 

 

だから

私たちが「愛されてる」って

感じることってつまり

 

相手が好き、と言ってくれていたり

行動してくれることを

 

これは好かれているんだ

大切にされてるんだと

 

私たちの意識が信じて採用しているから

愛されているという事実が成立する、ということなんです。

 

ここまで大丈夫でしょうか?

 

つまり、

客観的事実はそもそも存在しなくて

 

私たちが主観的にこれは本物だと思うから

本物になる、というふうに解釈できるんですよね。

 

で、ですよ。

 

私たちは

信じたいものを信じているし

みたいものを見ている、ただそれだけ!

 

という前提があったとしたら

 

もし!逆に彼がどれだけあなたのことを

愛していて

 

それがどれだけ心からの真実だとしても

 

あなたがその愛を

疑っていたとしたら

彼の愛は

存在しないのと一緒なんですよね。

 

これやばくないですか?

 

 

しかもこの考え方でいくと

あなたが見ている愛されていない現実って

彼がどうこうというよりは

 

あなたの

自分はどうせ愛されない存在だっていう

自分へのセルフイメージから生まれる

 

意識によるものなんですよね。

 

 

ということで

愛される、愛されないっていうのは

相手がやっていることじゃないんです。

 

自分が生み出してるんです。

 

 

全ての根源は

我の意識によるものだから。

 

 

我が自分のことを愛されるに値する人間だと認識していないと

愛されるということがそもそも存在しない

 

そういうことになります。

 

 

つまりデカルトの思想を借りて考えると

愛されるという事実は

存在しなくて

愛されているという

意識のみが存在するわけですね。

 

 

なんという新事実。

 

愛してくれる彼も

愛してくれない彼も

存在しなかった。

 

という考え方が

できるんですよね。

 

面白くないですか?

 

・・・

 

もちろん

ここで言いたいのは

あなたは愛されていないですよ、とか

そういう残酷な話ではありません。

 

多くの自己啓発って

自分を信じろ!って言いますよね。

 

哲学は逆で

疑いましょうって言います。

 

疑えって言われたのめちゃくちゃ面白くて

私はそんな哲学が好きです。

 

疑うっているのは

相手を疑うのではなくて

自分が認識している世界を疑うっていうことです。

 

疑うことで私たちは

今までの価値観の世界を抜け出して

新しい世界に突入することができます。

 

これを「問いを立てる」っていうんですが

問いを立てるというのは

「自立する」ということです。

 

自分の視点で改めて世界を捉え直すということなんですよね。

 

大事にされない悲しーって思うより

大事にされないことに

慣れてしまっていないか?

 

愛されない自分が

自分の初期設定になっていませんか?

 

という疑いを持ってみてほしいです。

 

だから、私がお伝えするのは

「愛するための哲学」なんです

 

他人に愛されるには

先に私たちが自分のことを愛しているという

前提が必要になってきます。

 

ここが蔑ろになっていると

どれだけ愛されテクニックを使っても

相手に尽くしても

 

パートナーシップは

私たちの満足いくものになりません

 

逆に

自分が自分を愛する能力を上げることで

 

あらゆる人間関係の中で

愛を受け取って

生きていくということができるようになります。

 

だから

相手に愛されてるか愛されてないかって

あまりこだわらなくてよくて

こだわらないというだけでも

 

人は余分な力が抜けて

めちゃくちゃ可愛くなると思うのです。

 

「我愛する故に我愛される」

 

本物が何かは

誰がなんと言おうと

自分で決めていいのです。

 

もちろん

これを採用するかどうかも

私たちの意識次第です。

 

どちらでもいいんですよ。

どちらでもいいのです。

 

 

ということで

ゆるく愛せるようになるラジオ

今日もありがとうございました。

 

明日は

じゃあ愛する能力って何なの?

どうやって上げるの?

というお話をしていきます。

 

いいねやコメント頂けましたらとっても嬉しいです

それではごきげんよう。

 

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