哲学とは「本質」を探究する学問です。

なので哲学をやっていると何かと「本質」を見ようとするクセが生まれます。

 

逆に、本質と反対のもの…

「表面的なもの」への安っぽさを感じたり、俗物感、大衆感…

 

「本質志向」になればなるほど、反対の極にある「思慮の浅さ」にげんなりするという感覚が気になるのではないでしょうか?

 

この記事では、研究室に参加してくださる方だからこそ伝えたい「両極に価値はある」というお話をしていきます。

 

両極とは何か?

物事には全て、隠と陽の局面があります。

簡単にいうと、ポジティブの面を別角度から見るとネガティブに捉えることもできるし、逆も然りということです。

 

物事に善も悪もなく、私たちが自分の「価値観」に基づいて、それがポジティブかネガティブか、といった判断をします。

国が変われば正義が変わるように、一つの答え、一つの極しかない、ということはないのです。

 

コンパスをイメージしてください。

S極とN極がありますよね。

 

これが、私がお話ししている両極のイメージです。

 

 

例えば哲学的な本質がS極だとしたら、表面的なものはN極です。

 

哲学はできるだけS極に向かっていく営みですよね。

だからこそ、Sの比重が重くなってNがどんどん軽くなっていきます。

 

Sが重くなると、

 

  • 抽象的になる
  • 視座が上がる
  • 反応よりも思考になる
  • 一つの答えがない

 

感覚としては、「この人何を言っているかよくわからない」と感じる人は多いかもしれません。

 

Nが重くなると

 

  • 具体的になる
  • 視座が下がる
  • 思考よりも反応になる
  • 答えが制限されている

 

このようになって「わかりやすい」という感覚を持てると思います。より具体的だからです。

 

ここで人は、「どちらかに価値があってどちらかには価値がない」という判断をしやすくなります。

片方が善で、片方が悪だと。

 

でも私がお伝えしたいのは、両極に価値があるということです。

コンパスのSとNは、どちらが正しいでしょうか?

優劣はありませんよね。

 

そもそも私たちは、どちらが善でどちらが悪だと、どう知ることができるでしょうか?

どちらにも、必要としている人はいますし、どちらを生きることでも人生を充実させることはできます。

善悪の判断は価値観でしかなく、お仕事で考えると世の中の経済は「需要と供給」で回っています。

 

例えばわかりやすい例でいうと、

かき氷の色と味が実は関係がなかったり、「本物」ではないとしても、それが好きな人には売れるのです。

 

わかりにくいものが欲しい人もいれば、わかりやすいものが欲しい人もいる。

救いたい人もいれば、救われたい人もいる。

真剣でありたい人もいれば、適当に生きたい人もいる。

集中したい人もいれば、分散させたりリラックスしたい人もいる。

付き合いたい人もいれば、別れたい人もいる。

動き続けたい人もいれば、休みたい人もいる。

 

どちらに優劣があるかではなく、両極に価値はあるのです。

 

エゴは両極に宿る

そして次にお話ししたいのは、「エゴは両極に宿る」というお話しです。

 

エゴというのは、私たちの「自我」です。

みんなが持っていて、「個人」であることの象徴です。

 

逆に「エゴ」を抜け出すことが「悟り」に近く、「個人」を抜け出した「全体」を感じるようになることです。

 

【視座が上がる=エゴを手放す】がわかりやすいかもしれません。

エゴが強いと、自分のことだけを考えるようになります。

自分、自分、となっている時は、エゴに心を掴まれている時です。

 

エゴに掴まれている時、人は変化が怖くなります。

失敗するのが怖い、挑戦するのが怖い、損するのが怖い、リスクをとるのが怖い。

 

自分が怖がっているのではなくて、自分と同化している「エゴ」が怖がっているのです。

そのエゴを抜け出すことで、人はあらゆる形に変化変容していきます。

 

そして、エゴは両極に宿る。

これがどんな意味かというと、「本質主義」も「表面的」も、どちらも極めればエゴです。

 

わかりにくいものを追求するのもエゴ。

わかりやすいものを善しとするのもエゴ。

 

救いたいのもエゴ。

救われようとするのもエゴ。

 

真剣であろうと突き詰めるのもエゴ。

適当でなんの責任を取りたくないのもエゴ。

 

集中が善なりもエゴ。

分散して見えなくなるのもエゴ。

 

執着もエゴ。

手放すのが善もエゴ。

 

動き続けたいのもエゴ。

休かないのもエゴ。

 

どちらにも意味があり、価値があり、意味がないともとれるし、価値がないとも取れる。

 

「絶対に〇〇したほうがいい」は、それが価値観として善でも悪でもそれはエゴなのです。

極が強まると、結果として人はそれに気付かされる出来事に遭います。

 

例えば

 

  • 哲学をやりすぎて思考優位になると感性が鈍る
  • 働きすぎると休息がなくなって体調を崩す
  • 自分に都合の良い主張ばかりしていると人が離れていく
  • 寝ると幸せでも、寝すぎると頭が痛くなる
  • ずっと座っていると体力がなくなっていく

 

などです。

 

働くのは善とされますが、「働かずにはいられない」となればそれは仕事中毒です。

恋をするのは素敵なことですが、「恋せずには生き甲斐がない」なら恋愛中毒です。

人に尽くすのは善行ですが「尽くさずにはいられない」なら依存です。

 

評価されることを求めて頑張るのはいいのですが、評価されなければ息苦しくなるのであれば、評価は薬のような毒になります。

 

このように、「エゴは両極にある」のです。

コンサルやコーチングをしているとき、何か問題を抱えている人は、両極のどちらかに寄っていることがよくあります。

 

だからこそ、突き詰めることは同時に視野を狭めているという認識も私たちには必要なのではないでしょうか。

 

可愛い人は「中庸」である

今回のテーマの「本質であろうとしすぎても人は可愛くなくなる」の意味が伝わったでしょうか。

哲学をやって思考優位になり、本質的であろうとしすぎても、「頭でっかち」「わかりにくい」「感情麻痺」こんな結果は生まれていくものだと思います。

 

反対の極を否定していると、特に。

両極に価値はあり、両極にエゴは宿るからです。

 

だからこそ、私たちはどこかでバランスを取るのだと感じています。

両極でない、自然な場所というのが「中庸」です。

 

中庸とは中国の儒教の教えであり、「誠の道」と呼ばれていますが、アリストテレスの倫理学でも「徳」と呼ばれていました。

 

かたよることなく、過不足なく、調和がとれていること。

 

その中庸がいわゆる「生きやすさ」であり、多様性の中の「調和」であるのだと私は感じています。

 

極な人は、尖っていてアート性を感じます。それも魅力ですが、調和ではありません。

反対に中庸である人は、柔らかくてマシュマロのように可愛いのです。

 

マシュマロだから、いろいろな形に姿を変え、調和して生きることができます。

 

ただ、マシュマロになろうとしてなれるものではありません。

 

「今日から中庸になるぞ!!」

 

それすらも、エゴに掴まれている考えだからです。

 

今私は、いろいろな勉強をしています。

でも、そのうち勉強しない極にもいくんだろうなと思います。いろんなことがバカらしくなって、自然とそうせざるを得ない状況になったりするのかもしれません。

 

そうやって、人は人生全体を使って、バランスを取っていくのです。

 

ずっと頑張ってきた人は、ダラダラすることになったりするし、

ずっと人に優しく生きてきた人は、ものすごく人を裏切る、という体験をするかもしれません。

 

真面目に生きてきた人が、突然蒸発したり病気になったりすることもあるかもしれないし、人のことなんて信じない!!と言っていた人が、人を心の底から愛したりする体験も、人生の中ではあるのだと思います。

 

なのでもし、現状があまり動かずに焦りを感じたり、退屈さを感じている方は、一度逆の極に行ってみるのもいいと思います。

嫌かもしれませんが、それも筋トレです。

 

本質ばかり追いかけている日々を一旦やめて、ものすごく表面的なものに目を向けて楽しんでみるとか、価値提供を頑張ってきたけど、もう誰の役にも立たないぞ!と営業終了してみるとか、そんなことでいいと思います。

 

両極に等しく価値がある。

エゴは両極に宿る。

そして、中庸は可愛い。

 

そんなアイデアが、皆様にも共有できたらなと思います。

 

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