普段生きていると、「信じなさい」と言われることが、多いですよね。

でも哲学は、「疑いなさい」と言うのです。面白いですよね。

私は、哲学のそんなところが好きです。

 

哲学は、2500年以上前から営まれてきた学問です。

 

元々の哲学とは、「自分とはなんなのか?世界とはなんなのか?自然とは?」という、自然科学的な、宇宙の存在そのものに対する疑問を解き明かしたいという想いから始まりました。

 

哲学が生まれる前、全ては「神様」が作ったのだと、人々は考えていました。

それが神話や宗教ですね。

 

しかしそのうち、「意識で知ることができる範囲」と、「意識では知ることができない範囲」があるよね?と人々は発見したのです。

 

そして、「意識で知ることができる範囲(学問)」と、「意識で知ることができない範囲(思想・宗教)」を分けて、哲学に論理的で合理的な【学問】としての立ち位置を与えました。

 

そして、万物の根源は水なんじゃないかな?

いや、火なんじゃない?とか、いろんな考えが揉みに揉まれて、2500年の時を超えて、哲学は発展していきました。

 

これが哲学のざっくりとした歴史です。

 

元々哲学は、「よくわからないけど、あるとわかるもの」を解き明かそうとして生まれたんですよね。

表面を掘った先にある変わらない【本質】を知りたいという探求の精神。

 

だから人は、幸せとか、時間とか、お金とか、自由とか、色んなことをテーマに哲学してきました。

 

そして哲学には、2つ意味があります。

  • 学問としての哲学
  • 哲学するという態度

私がお伝えする哲学は、後者が多いです。

哲学する態度、というのは、問いを立てて、考え続けるということです。

 

私は、哲学って愛のためにあるのではないかと思うのです。

愛そのものを特定の形として見たことがありますか?

ないですよね。

 

よくわからないけど、あるのだとわかる。

だから人は、まだ見ぬ愛に何度敗れても、また立ちあがろうとするのです。

 

これから私は、愛についての色々な研究をお伝えしますが、それも一つのアイデアにすぎません。ぜひたくさん疑っていただき、謎を深めていただき、楽しんでくださいね。

哲学において、答えよりも問いに、価値がありますから。

本当の愛とフェイクの愛の違い

さて本題に入ります。

今月は、「本当の愛とフェイクの愛の違い」というお話をしようと思います。

いきなりギョッとするテーマですよね。

これは「愛するための哲学:白取春彦 著」からアイデアをもらいながら、お話をしていきますね。

 

インスタでも日頃から「これは愛でしょうか?」といったご質問は多いです。

 

皆様が何を知りたいのかというと、「自分は愛されているのか?自分は相手を愛しているのか?」という確信かなと思います。

 

つまり、本当の愛とフェイクの愛の見分け方を知りたいんですよね。

 

確かに、よくわからないですよね。

本当の愛を、どういった判断基準で決めるかなんて、まさに感覚。

育った環境と価値観で、随分と変わってしまうものだと思います。

 

私はずっと、恋をすれば自動的に愛もついてくるのだと思っていました。

  • 恋と愛は、同時に自然発生するものである
  • 恋が育った結果、それが愛になる

こんなイメージがあったんですよね。

でも、愛の研究をしていくにつれて、どうやらそれはちょっと違うかもなという気持ちになっています。

 

「なぜ人は別れてしまうのか」

 

著書の中に、とてもパンチ力のある一説がありました。

 

多くの人はそれぞれにさまざまな理由で別れがやってくると考えているようですが、実際には恋愛が破綻する根源はシンプルにたった一つです。

「愛」がわからないからです。

 

またこんな一説もあります。

 

いっときの情熱で染まった恋愛のみで結びついた関係は、二人の「愛」の接着面が狭かったために、いつまでも最初のようにくっついていられなくなるのです。

そして、別れが訪れることになります。

 

これは、入会特典記事の「愛を伝える5つの言語」を読んでいただけるとさらに理解が深まると思います。

 

あの記事を簡単にご紹介すると、このようなことを書きました。

  • 自分にとっての愛が相手にとっての愛とは限らない
  • 愛するとは能力であって、育てていく必要がある
  • 恋は情熱であり、愛とは別物
  • 恋から愛に移行することができるかどうかが、長続きには重要

 

つまり、「恋には、有効期限がある。だから有効期限が切れる前に愛する能力が育たなければ、絆の深い関係になることはできない」

 

ということなんですよね。

 

だから何も知らない私たちは、「恋」のことを「愛」だと考えたり、「フェイクの愛」を「本物の愛」だと信じて、変わっていく関係性を理解するまでもなく、傷ついてしまうのです。

 

でも、私としては、恋をしたことも、愛したということも、本人にとっては嘘ではないと思うのです。

一生懸命に恋をした。それも、十分に素晴らしいことと思いますけどね。

 

では、「本物の愛」とはなんでしょう?

 

著書では、「本物の愛を見分けるのは簡単だ」とありました。

 

その見分け方は、この3つです。

  1. なんらかの目的を二人の関係の外側に隠し持っているかどうか
  2. 相手の美や性質を他の人と比較することが頻繁にあるかどうか
  3. 相手と離れていても、相手の存在を身近に感じられるかどうか

 

①なんらかの目的を二人の関係の外側に隠し持っているかどうかについては、「隠し持っていたらフェイク」ということです。

 

例えば

  • 相手の肉体
  • 金銭や稼ぐ能力
  • 若さ
  • 強さ
  • 利口さ
  • 能力
  • 家柄
  • 血統
  • 地位など

本当は相手との関係の中に目当てにしているものがあるのにも関わらず、自覚のない詐欺師のようになってしまい、相手から何かを得るために「愛している」という状態が、フェイクの愛です。

相手との関係をメリットデメリットで考えている、ということです。

 

②相手の美や性質を他の人と比較することが頻繁にあるかどうか

 

これは、相手の見た目やデザインに異常にこだわるというのは、常に自分の主観で「持ち物」としての美醜を競争させ続けているということであり、それは他者愛ではなくて利己的な愛である、ということです。

他人という異質な存在、しかも、絶えず変化し続ける存在を、この態度で愛し続けることができるのだろうか?と著書では述べられています。

 

③相手と離れていても、相手の存在を身近に感じられるかどうか

 

本当の愛とは、相手の実在、存在に依存しない、と言われます。

愛の一体化。

離れていても、たとえ生きていなくても、愛しているという気持ちは続いて、心を暖かくしてくれているということです。

 

古代ギリシャの哲学者エピクロスは、「亡くなった友人の思い出は、快である」と言いました。

私は、なんとなくこれは共感できました。

 

亡くなってしまって、もう2度と会うことはできないけれど、友人は心の中にい続けて、その親密さを感じている…。

 

いなくなってしまった時はもちろん悲しいと思いますし、落ち込むと思いますが、悲しみ続ける、落ち込み続けるのは相手への「依存である」という考え方です。

愛している相手が欠けたことで心に穴が空いて寂しいのであれば、そこは最初から穴が空いていて、相手を穴埋めの道具として使っていただけである、というのが著書で話されていることです。

なかなか手厳しいですが、全くわからないでもないなと思います。

愛の性質について

「本当の愛」の特徴を見て思うのは、「愛の性質」とは、情熱的なものではなくて、安らぎや癒しという静かな感情なのかもしれないということです。

そして「愛」は欠乏することなく、親密さとして心にずっと残り続ける。

 

反対に、「恋」とは欲する力です。

欲したものにレスポンスがあると、私たちは満たされる。

それが、恋の充実。

だから、恋している相手がいなくなると悲しい。寂しい。苦しい。そんな孤独を、恋愛をすると感じるのかもしれません。

ということで、今月の愛と哲学の話は、「本物の愛とフェイクの愛」のお話でした。

いかがでしたでしょうか?

  1. なんらかの目的を二人の関係の外側に隠し持っているかどうか
  2. 相手の美や性質を他の人と比較することが頻繁にあるかどうか
  3. 相手と離れていても、相手の存在を身近に感じられるかどうか

この3つのポイントを改めて振り返ってみると、色々と思うことがあるかもしれません。

愛するということは、人間としての成熟も伴うのだと感じました。

まだまだ研究報告は続きます。

 

もしご感想や気になることがありましたら、こちらからお寄せくださいね。

 

参考:愛するための哲学 白取春彦 著

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