はじめに.私たちは、なぜ手放せないのか
「手放し」というのは、ここ数年よく聞くキーワードですね。
どうして私たちは、毎日何かを「得るために」働き、人間関係を作り、ものを買い、学校に行き、学んでいくのに、ここまで「手放す」ことに関心を寄せるのでしょうか?
きっとここには、「生き直し」や「再構築」という目的があるのでしょうね。
モノに限らず、関係性や肩書き、記憶や習慣。
私たちは何かを持ち続けることで、自分を形づくってきました。
「持っているもの」は、自分がどこに属しているか、何者なのかを教えてくれます。
自分が持っているもの、大切にしているものは、アイデンティティそのもの。
年季が入るほどに、自分の一部となって、愛おしくなるかもしれませんし、自分を縛るものにもなるかもしれませんね。
だからこそ、「それを手放す」となると、そこにはただの整理整頓を超えた、自分という存在の不安定さがつきまとうのかもしれません。
その不安定さを受け入れ、乗り越えていくことが、生き方の再構築。
私自身、最近ひとつの節目として、大きな断捨離を行いました。
それは単にモノを減らしたというよりも、「これまでの私をどう引き受け、これからの私に何を託すのか」という問いを立て直すプロセスだったように思います。
正直、その断捨離は少し痛かった。
でも、やってよかったと思います。
その痛みにも、私は意味があるように思うのです。
こちらの研究報告では、私自身の断捨離をなぜ行い、その結果どのように日常が変わったのかをお話ししていこうと思います。
1.友人Yさんとの思い出のカメラ
手放したモノの中でも特別だったのが、二台の一眼レフカメラでした。
20代の頃から使ってきたもので、仕事でも使いましたし、旅先での風景や、家族との時間、日々のささやかな発見が、このカメラのレンズを通して記録されていました。
自分を形づくるアイデンティティの一つだったんですね。
特に、学生時代の友人との思い出が深く刻まれていました。
私がカメラを持つきっかけになったのは、この大学時代の「友人」との出会いです。
友人のことをYさんと呼びます。
Yさんはすでにこの世を去っていますが、私にとってかけがえのない存在でした。
Yさんは、対人恐怖症でした。
人に会うと、震えが止まらず、息ができなくなり、休学をしている人でした。
でもその中で、自分と社会との繋がりを再構築しようとして、私たちの母校である大学の学生4万人の笑顔の写真を撮っていた人でした。
Yさんのおかげで私はとても楽しい大学時代を過ごしましたし、彼が繋げてくれた友人たちは、今でも交流のある特別な人たちです。
私がカメラを始めたのは、Yさんがこの世を去った後でした。
私は、Yさんのことをもっと知りたかった。彼が、一体何を見ていたのかを。どんな気持ちで、写真を撮っていたのかを。
私にとってカメラは、もう会うことも話すこともできないYさんと繋がり続けるための、手がかりだったのです。
断捨離のお話に戻りますが、今私が生きている時代は、Yさんがこの世を去って、ちょうど10年ほどが経っていました。
Yさんがいない間も、彼のことを考えさせてくれたカメラ。
そのようなモノを手放すことは、単なる「処分」とは違います。
Yさんとの関係の更新。
私はなんとなくカメラを「持ち続けなければいけない」と思っていました。
それはおそらく彼とのつながりを絶やさないためであり、あの時間が確かに存在したことの証としてでもありました。
けれどある日ふと、「もう、手放してもいいかもしれない」と感じたのです。
それは、思い出を消すという意味ではなく、Yさんのことを考えなくなるわけでもなく、すでに自分の中にある大切なものが、「もはや外部に依存しなくても確かに存在し続けられる」という感覚でした。
2.「自分らしさ」は変わっていくもの
カメラとともに、服やアクセサリーも多く手放しました。
それらは過去の自分を表現するために選び、身につけてきたものでした。
過去に付き合いのあった人からもらった高価なものも、自分では買えない装飾品もありました。
それらのことを気にいっていましたし、私は、「こういうものを着ている自分」が好きだったのだと思います。
しかし、どうも似合わなくなってしまった。
ややもすると、最初から似合わなかったのかもしれないし、好みが変わったのかもしれません。
でも、似合わなくなって、よかったのだと思います。
自分らしさの更新。
「自分らしさ」とは流動的なものなのだと気づかされました。
もしかすると、私が大事にしていたのは「モノ」ではなく、「それを持っていることで繋がりあえる感覚」だったかもしれないし、「それを持っていることで成立する自己の像」だったのかもしれません。
そして、全て、なくなってしまった。
断捨離によってそれらを手放したとき、残ったのは空白ではなく、今の自分にふさわしい空間でした。
何も痛みがないと言えば、嘘になると思います。
少し寂しかった。もうあの時には戻れないのだと感じた。
あの「いつか」に戻るための扉の鍵を、自らもう二度と手にすることのない場所に葬ったのです。
残った空間は、確かに静かにぽっかりとあきました。でもその静けさを受け入れられたとき、私はようやく「現在」の自分を信頼できるようになったのです。
自分の足で立つということを、許し始めたように思います。
3.何を残すかは、「これから」に関わる問い
断捨離は、過去を否定することではありません。
むしろ、「その時々で本当に必要だったものに、ちゃんと感謝すること」だと感じました。
きっと、カメラも服もアクセサリーも、当時の私には必要なものでした。
自分と世界が繋がり続けるための、大切な架け橋。
アイデンティティを作り、保つための鋳型。
今までは外側を固めることで自分を型取りしていたところを、数年の時を経て、自分そのものが自分の「型」のように、なり始めたのです。
そしてそれは、「これからの自分が何を大切にしたいのか」という問いを伴います。
私たちは、過去の延長で今を生きていくものです。
かつて大切だったものは、未来でも同じように大切だと思えて疑わない。
愛する人だってそう。
愛するとは、今の瞬間の刹那の話ではなく、もっと永続的な感覚だから。
けれど、それは必ずしも保証されたものではありません。
持ち続けることで苦しくなるものもあれば、手放すことでようやく呼吸ができるようになるものもある。
だからこそ、ときどき立ち止まって、選び直す必要があるのだと思います。
4.手放すことと持ち続けること
断捨離を通して学んだのは、「持っていること」だけが豊かさではないということでした。
残すことには意味があります。
それは記憶を継続させる力であり、価値観を支える土台でもあります。
しかし同時に、手放すことにも意味があります。
それは、自分自身との関係を更新すること。
大切にしてきた過去の美しさを、今の自分にふさわしい距離感で捉え直すこと。
そして、変わりゆく自分を受け入れながら、それでも大切なものは大切だと言える強さを持つこと。
そして重要なのは、「必要なくなったから手放せた」のではない、ということです。
断捨離には、正直痛みがありました。思い出があり、名残惜しさもありました。
けれど、その痛みに意味があると私は思います。
何も心が動かないから手放すのであれば、それはただのゴミ捨てと同じ、処分です。
その痛みを感じながらも前に進むから、次に向かうための力は生まれていくように思います。
私にとって今回の断捨離は、「何を手放したうえで、今を選び直すか?」という問いの行為。
その問いは思考に沁み入り、体に沁み入り、新しい現実を探し始めます。
こうやって問いは確実に、私たちの人生を変えていくのです。
終わりにー断捨離後の日々
断捨離をした後の日々は、なんだかスッキリしていました。
「今までの自分なら」という主張が、スッと存在感を消して楽になった感覚。
ものがなくなったから、自分には「ない」のではないのです。
そしてものがなくなれば思い出もなくなるわけでもない。
むしろ新しい距離感で、人生の経験は私の人生に刻まれました。
カメラを見るたびに思い出していた友人の顔。楽しかった日々。友人を思って泣いた日々。
もうそのカメラを見ることはないけれど、残ったのは寂しさでもなく、罪悪感でもなく、懐かしさでもなく、、、なんでしょうね。
自分の人生を生きていこう、という、静かに湧いてくる力、かもしれません。
断捨離、おすすめです。
断捨離は、今とこれからの自分を問い直す、哲学的な行為です。
本日も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
もしよろしければ、皆様の断捨離の経験も、教えてくださいね。
https://forms.gle/Tf9PeREmN57gfnG56