「愛するという生き方」がしたいと意識した時、私はどんどん否定ができなくなっていきました。
嫌な思いをしても、
「でも、こんな良いこともあったし!」
「あの人にはこんな素晴らしいところもあるし!」
「これにもきっと意味がある!」
「辛いけれど、仕方ない!」
とポジティブ変換することで、前向きに生きていこうとしていたのです。
「捉え方で人生は変わる」
本当にその通りです。
自分がどう思うかで、起きる出来事の意味は変わっていきます。
では、捉え方でコントロールすることで「現実を見ない」ことは、果たして本当に愛する生き方なのでしょうか?
こんなことをあらためて考えながら、その考察を書いていこうと思います。
目次
- 愛するという目隠し
- 愛するという執着と依存
- ズレは自分への愛情不足から起きる
- 尊敬とはなんなのか
- 愛することの一つの答え
1.愛するという目隠し
愛する生き方をすると、自己犠牲が増えていくとしたら。
その場合は、何かがズレている可能性があります。
例えば
・相手がひどく遅刻して嫌だけどそんな相手を尊重する
・自分の要望を否定されて辛いけれどそんな考え方もいいねと納得する
・心が痛む言葉を投げかけられても、文化が違うだけだなとポジティブ変換する
本当は心が痛むのに、それでも「肯定しよう」と努力するのは、本当に愛する生き方なのでしょうか?
関係が薄い人だとフェードアウトすればいいと思うのですが、その対象が大切な人、身近な人、パートナーだとしたらどうでしょう?
「愛しているから、これは肯定しないといけない」
この考え方にいたる時点で、もしかすると、その奥には何か否定したい物事があるはずなのです。
もちろん、相手の良いところ、才能を見出してそれを肯定する、という技術はとても知的で、素晴らしいことです。
しかし、「そのあり余る肯定は、否定から生まれていないか?」
私はその違和感を感じているのです。
愛するという目隠し。
「私はあなたを愛している」という免罪符を持つことで、痛みの対象に向き合わなくてもいい状態を作り上げている。
こうなるはずではなかったのに、なにかがおかしい。
それは、愛する生き方ではなくて、自己犠牲の生き方になってしまうように思いました。
2.「愛する」という執着と依存
人間にはサンクコストバイアスがありますので、時間や労力やお金をかけるほどに、「これは自分にとって重要なものだ」と考えてしまうものです。
なので辛い恋愛をしていたり、長年連れ添っているパートナーとうまくいっていないのに別れることができないのは、ある意味ダメージを受けるほどに、傷を負っただけの見返りを求めている状態になります。
つまり痛ければ痛いほど、そしてそれを我慢すればするほど、長く続いてしまうこともあるのです。
そんなサンクコストバイアスをさらに深めてしまうのが、執着や依存です。
私は執着や依存を悪いものとはしていません。例えば研究だって、知りたいという執着。
執着や依存があるから続けられることは、たくさんあります。
まず、執着や依存についての私の定義を書きますね。
執着…結果をコントロールしようとすること
依存…何か避けたい痛みを誤魔化す痛み止め・現実逃避
執着は、結果に縛られた状態です。
「この人と結婚したい!!」と思ったら、その人と結婚する結果しか選択肢としてないのです。
相手のことはコントロールすることができないのに、欲しい結果に力を加え続けている状態が執着です。
依存とは、痛み止めの現実逃避です。
依存をする時、例えば恋愛依存の場合はその相手が原因なのではなくて、例えば「1人であるという孤独な自分の姿に耐えられない」「仕事がキツイ」「家族がキツイ」など、紛らわせたい痛みが他にあります。
なので、依存の対象に問題を探して解決したとしても、依存が終わることはないように思います。
他にも仕事依存や買い物依存、ギャンブル依存やお酒の依存などもありますよね。
仕事依存は、お仕事に問題があるのではなくて、例えば家族に向き合わないといけない痛みから逃れるために、仕事を痛み止めとして活用したりします。
私たちは現実に向き合うことの痛みから逃避するために、何かしらに合理的に依存するのです。
なので、依存の対象を取り上げたとしても、問題の原因はそこではないから、改善はしていきません。
どちらにせよ、執着も依存も、「現実を見ることができない・現実を受け入れることができない」ことから起きます。
実際にはどんな痛みが待っているかも確かめることなく、見る前に怖がっているのです。
では、「愛する」という依存は?
何を手に入れて、何から逃げたいための、執着と依存なのでしょうか。
3.ズレは自分への愛情不足から起きる
どうして愛そうとしているのに、苦しくなってしまうのか。
その原因は、自分への愛情不足です。
「自分を愛していないと、人のことは愛せないよ!」なんて、きっと研究室の皆様は耳にタコができるほど聞いてきた話だと思います。
そんなことはわかってるよ、と。
自分のことを愛した状態で人のことも愛している。
それが具体的にどういうことなのか、わかっている状態が、ズレに気づいてバランスを整えるための大切なポイントだと思います。
何年も前の私の経験なのですが、昔のパートナーにお金を貸して、返ってこないことがありました。
その上で、「返して」と言えないのです。
・このまま貸したままが、愛なのだろうか
・私はこの経験で器を広げようとしているのだろうか
・このくらい我慢しなきゃいけない
・それとも、相手は忘れているだけだから、声をかけるのが愛なのか
・そもそもお金を貸すというのは、返ってこないことを前提にやるべきで、私は人間が未熟なのだろうか
色々なことを考えました。
そして長く考えていると、考えがどんどん歪んでくるのです。
・借りたお金も返せないこの人はいい加減な人だ
・ここで、返してって言ってしまったら、心が狭い人間だと私が思われるんじゃないか
・きっとこの人はお金にだらしないし、これからもだらしないんだろうな
・私ってお金を返す価値もない人間なんだな
こんなことをぐるぐる考えていたら、好きだった相手がどんどんカッコ悪く見えてくるものです。頭の中で、相手へのジャッジが繰り返されている状態です。
そしてどうしてたった一言「貸したお金を返して」が言えないかというと、結局は、「自分がいい人間に見られたいから」だったのです。(ここでいい人間とは何か、は置いておいて)
「心の狭い女だと思われたくない」
「嫌われたくない」
根本は、ここなのです。
別に相手がどんな人間かなんて、関係ない。
相手の反応がよかったら、自分の判断は正しいと安心できるし、相手の反応が悪かったら、自分は間違った弱い人間なのだと、評価してしまうのです。
「器の大きないい女に見られたい」
「寛容な人だと思われたい」
「できるだけ愛のある女だと思われたい」
相手なんて関係なく、自分が認められたい下心がバリバリなのです。
つまり自分が自分のことを認めていない限り、相手に承認を求めてしまう。
それが自分への「愛情不足」なのです。
この状態だと、パートナーシップは特に苦しいと思います。
相手の機嫌一つ、相手の都合一つで自己評価が変わりますから。
関係性の中で不満が起きるたびに、「愛するという承認欲求」が自分を苦しめて、自分からもお相手からも、本当の「わたし」が見えなくなっていくのです。
4.尊敬とはなんなのか
この問題を解決するために必要になってくるのが「尊敬」の能力です。
尊敬とはよく、人のいいところを評価していく、という意味で捉えられますが、尊敬の本当の意味とは、自分が下に入ったり、相手を上に評価することではありません。
「ただ、そのままに、ありのままに、相手を見るということ」です。
これは「幸せになる勇気」の中でアドラー心理学の考え方として語られている内容です。
そして愛の哲学者エーリッヒ・フロムも関連した言葉を残していて、「尊敬とは相手が唯一無二の存在だと知る能力」と表現しています。
私たちは、愛そうとする時に、相手の「良い部分」を評価しようとします。
しかし、これはもしかすると「相手をジャッジし、善悪を押し付け、良い部分だけを抽出しようとしている」という現実逃避なのかもしれません。
エーリッヒ・フロムが定義する愛の構成要素は、「知・尊敬・責任・配慮」
この4つが愛には含まれていると言いますが、「尊敬」を「ジャッジ」に変えてしまっているからこそ、自己犠牲などのズレが起きてしまっているように思います。
「ただ、そのままに、ありのままに、相手を見る」
「相手が唯一無二の存在だと知る」
ここに善悪はないはずなのに、解釈する私たちの方が「自分にとって都合の悪い部分は見ないようにする」という厳しいジャッジをしている。
痛みのある現実を見ることができないと、私たちはさらなる痛みを経験することになり、その痛みを誤魔化すために、依存を作り出していきます。
愛するということは、聖人君主になることではありません。
上下関係を作ることでもありません。
ただ、大切に思う相手と、対等にいて、お互いの自己実現のためにサポートし合うことです。
そしてそのためには、自分自身を認め、他者に承認を依存しない前提が必要になります。
5.愛することの一つの答え
愛することは自己成長に繋がります。
愛の報酬は相手からの見返りではなくて、自分の変化。
相手を愛そうとする中で、自分が努力し、視野を広げ、変化変容していくからです。
なので、愛による失敗(と自分で思うもの)も、それは変化のきっかけを生んだ、必要な経験です。
だからこそ、愛するという生き方はずっと続けていきたいし、途中で間違っていたと思っても、その度に学びながら新しい答えを見出していきたい、と私は思っています。
私は今まで、たくさんの自己犠牲の愛し方をしてきましたし、たくさんの他者依存の愛し方をしてきました。
自分が愛だと思っていたものが、相手にとっては愛ではなかったとあとで気づくことは、たくさんあります。
承認欲求もそうです。自分が素晴らしい人間になりたいから、その手段として相手を愛するという行動を使う。
もちろんその場では自分も相手も満足すると思いますし、悪いことではないのですが、下心による行動の先には、ちゃんと帳尻合わせがくるな、と思う次第です。
そして結局、愛するということの一つの答えとは何か。
それは、「現実を見る=尊敬」ということです。
相手の良いところ、自分の良いところを見るのは大切なことです。
でも同時に、相手の良くないところ、自分の良くないところも、同等に扱うことが必要だと感じます。
例えば相手が浮気をしたとして、自分の信念としてはそれがどうしても容認できないのであれば、別れることも愛です。
そこで執着につかまれて、それを「だってあなたを愛しているから」と正当化し、別れる痛みよりも別れない痛みを選び、現実を見ずに「許した」という自分を使って誤魔化すことで、状況はもっと辛くなっていきます。
そしてその辛さに耐えかねて、愛していると言いながらも相手への怒りが収まらない、というのは、尊敬ができていないのです。
優しかった相手も本当。浮気をした相手も本当。
そのどちらかを都合よく取り立てるのではなくて、どちらも同列に尊敬する。
本来はそれが自然であったはずなのに、いつからか「長所が上」「短所は下、だからポジティブ変換しないといけない」というように、欠点を欠点として扱うことに罪悪感や決まりの悪さを感じていたように思います。
これは「目を瞑るのをやめましょう」とか、「寛容であることはやめましょう」という意味ではなくて、「自分が自分を受け入れられないという理由でいい人であり続けるために、相手との関わりを自己犠牲の材料にするのはやめましょう」という意味です。
尊敬とは、相手が唯一無二の存在であると知る能力です。
長所と短所に優劣はなく、どちらかを隠す必要もない。
相手が遅刻しようが、お金を返さない人であろうが、意味をこねくり回す必要はなく、ただ普通に問題ないのならそれでいいし、嫌だったら嫌、無理、別れる、で全然オッケーなのです。
自分への愛情不足から、自分の気持ちに正直になれずに、サンクコストバイアスを働かせて、自己犠牲を働き続ける、というのが「愛に傷つく」根本原因なのです。
自分に色々と条件をつけてそれを合格しないと、自分を自分として愛することができない。
だから現実をまっすぐ見れなくて、文句が言えないし、いい女に見られたいし、お金返してと言えないのです。
相手を自己承認の材料に使っている限り、愛そうとしても、空虚さは続くのかもしれません。
愛するとは、現実を見るということ。
自分の承認は、自分ですること。
だから、自分を愛するというのが、相手を愛すること以上に、大切なんですね。
自分への尊敬と相手の尊敬を対等にすることで、深いつながりをつくりながら、関わり合えるのではないでしょうか。
もちろん、それがパッとできたら苦労しないよ、となるのが人間です。
一つ一つ、ピッタリとくるものから、ゆっくりやっていきましょう^^
本日もありがとうございました。
ぜひ研究員の皆様のご意見も、教えてください^^