無条件の愛は本当に尊いのか?
私は「愛に向かって生きましょう」とインスタでよく言っているのですが、愛に向かって生きるとはどんな状態でしょう?
自分のことを愛している状態ですか?
多くの人を愛せる状態ですか?
目の前の人を大切にできることですか?
誰にも怒ったりしない状態ですか?
無条件の愛を持っている状態でしょうか?
私は「愛に向かって生きる」とは、「愛とは何か」、問い続ける生き方だと思っています。
そして最近、自分の行いを振り返っていった時、「わたし、無条件の愛を目指そうとしていたなぁ」と気づきがあったんですよね。
つまり、無条件の愛が「優れた愛」で、無条件ではない愛は「劣る愛」という認識を持っていたということです。
それによって、「無条件の愛ハラスメント」を自分に課していたなと思い、その振り返りを書きます。
愛には4つの段階があると言われています。
- 赤ちゃんの愛
- 通貨としての愛
- 無条件の愛
- 精神性の愛
一つずつ解説をしていきますね。
1.赤ちゃんの愛
これは、赤ちゃんのようにただ「一方的に受け取る」だけの愛です。
「愛して!!!」と全力で自分をアピールしていくことですね。
赤ちゃんはほとんど自分で何もできません。
だからこそ、強制的に自分を愛させないと、生き延びることができないのです。
そして存分に愛情をもらい、もらった愛を今度は返していくことを成長途中で学んでいきます。
2.通貨としての愛
お金を払うことで品物が手に入るように、愛を使って「取引」をします。
愛するから、あなたもそれに相当するものを返してね。ということです。
「相当するもの」は、物質であったり、関係性であったり、破らない約束であったり、まさにお金だったりします。
通貨としての愛を渡しながら暮らしていると、品物が返ってこない時もあります。そんな時、自分は愛しているのに、どうして相手は愛してくれないの?となっていきます。
3.無条件の愛
愛すれば何か相手から返ってくるのが、通貨としての愛でした。
無条件の愛は、愛する喜び、それ自体が報酬です。
例え相手がどんな態度であっても、愛したいから愛する。
条件や見返りを求めていない。それが無条件の愛です。
4.精神性の愛
これは、自分を殺そうとしてくる人へも、同じ人類として融けあった愛を感じる段階です。
自分の大切なものを壊されたとしても、危害を加えられたとしても。
そんな愛も、存在すると言われています。
今、愛の4つの段階をご紹介しました。
研究員の皆様は、どの段階の愛を、愛のイメージとして捉えていますか?
そして人間とは成長したい生き物。
多くの方は、自分の愛の段階を上げていきたいと感じると思います。
特に「無条件の愛」を目指していきたいと思われる方も多いのではないでしょうか。
私もそう思っていました。
精神性の愛はともかく、無条件の愛を持つことが、愛に向かって生きることだと。
しかし、今日お話ししたいのは、「無条件の愛ってそんなに尊いのだろうか?」というある問いです。
無条件の愛と自己犠牲
こんなメッセージをよくいただきます。
これは私もかなり共感できる部分がありまして、確かに無条件の愛を目指そうとするほどに、何か不具合が起きているぞと感じていました。
なぜかというと、無条件の愛は、貢献することで喜びが増すからです。
でも、自己犠牲の愛は、自分が苦しくなる。寂しくなる。一時的には「やった感」があるんですけどね。
これって、「無条件の愛」を装った「自己犠牲」の結果なんですよね。
日本には、自己犠牲が美徳である文化もあるかもしれません。
でもこれは、すればするほど自分が傷つき、後には虚しさや悲しさが残る行為です。
無条件の愛と、自己犠牲の違いは、明確です。
無条件の愛
→相手と対等であり、主体的に働きかけることで、相手の自己実現を支える貢献感を感じる
自己犠牲の愛
→相手と対等でなく、相手を真に愛していないことへ対する埋め合わせとしての行動
「え、確かに自己犠牲かもしれないけど、相手のことは愛してますよ」
そんな声が聞こえてきます。
でも、自己犠牲の場合、実際には相手のことを愛していないのです。
自己犠牲は「愛している」を「押し付ける」
例えてお話しすると、相手に花束をプレゼントするようなものです。
自己犠牲をするとき、自分としては相手に美しい花束を渡しているつもりが、量が多すぎて相手が受け取れないほどの花束を押しつけている状態かもしれません。
その上、借金をしてまでも花を買いに行っていて、これが相手と良好な関係を築くための必要投資だと思っているのです。
この時、愛する対象は自分か相手、二者択一です。
「〇〇しなければいけない、さもなくば〜」という思考が常にあります。
でも相手からすると、こんなに大量の花束、受け取りきれないんですよね。
人によっては、無駄になるゴミを渡されていると感じるかもしれません。
そしてゴミをもらった相手は、いらないと言うか、どこかで捨てるしかありません。
「ゴミをくれてありがとう、あなたがいてくれてよかった」なんて、口では言っても心からは思えないのです。
それなのに花を渡した当事者は、自分が渡したのは美しい花束だと疑うことなく「どうしてこんなに尽くしたのに、相手は喜んでくれないの、こんなに自分は損して頑張ったのに、与えれば愛されるはずなのに」と満足できず、もっと感謝してほしいし評価してほしいし愛してほしいと感じるのです。
更には、「悪者」が登場するかもしれませんね。
尽くした相手が自分を愛してくれないことで、次第に相手は「報酬をくれない悪者」になっていきます。
でも、それだけ尽くした相手です。サンクコストバイアスが働いて、今更諦められません。
次はもっと自分を犠牲にして、大きなプレゼントを渡そうと考えます。
もっと自分が頑張れば、欲しいものが返ってくると信じて…。
そうやって、相手に与えすぎたり、合わせすぎたり、無理をしてまでも評価してもらおうとします。
そしてこれだけ愛している自分の行いは、「無条件の愛」なのだと思ってしまうのです。
愛には配慮が必要
これが、自己犠牲をする人がつらくなってしまう原因だと思います。
客観的に見れば、「やめとこうよ…」と思われるかもしれません。
でも、当事者になるとわからないんですよね。
どうしてこうなってしまうのでしょうか。
その答えとして、一つ思うのは「与えないと愛されない」という、信念を握りしめているからかもしれません。
だから自分が無理をしてでも、与えようとする。
これは同時に、相手に「受け取ることを強要する」ことでもあります。
こうなるとその愛は無条件ではなく、取引であり、通貨としての愛になるかもしれませんし、愛と呼べるのかもよくわからなくなってきます。
自分の「愛されない」という信念による痛みからの「逃避」だからです。
そして何より、自己満足のために相手が受け取れないほどのものを贈るのは、配慮に欠けているのです。
配慮とは、愛の重要な要素です。
相手が心地よくいられるための気配りであり、本当の意味で配慮ができる人は、与えすぎることをしません。
私たちが相手に渡せば渡すほどに、相手は返さないといけないと思ってしまいます。
だから溢れるほどに与えすぎるあなたからは受け取りたくなくなるし、いまいちしっくりこなくなるのです。
更には愛のお返しを今か今かと待たれているのは、苦しいですよね。
愛するというのは、面白いです。
相手に向かっているようで、結局は、自分の中身が見えてくるのです。
与えすぎてしまう人は、「与えていないと、自分は愛されない」という恐れを抱えて、それを相手に無尽蔵にぶつけてしまいます。
相手は、自分が自己犠牲を演じるための舞台なのです。
自己犠牲は、相手のことを考えた愛のギフトではなくて、自分の恐れを埋め合わせるためのごまかし。
ここからどうしていけばいいのか?を考えた時、向き合うべきはまずは自分であることに気がつきます。
無条件の愛を目指さなくていい
今回のテーマに戻っていくのですが、「無条件の愛は本当に尊いのか?」という問いです。
「無条件の愛」は、実現すれば尊いかもしれません。
でも、そんな無条件の愛こそが本物の愛だと思うことで、無条件の愛をぜひ目指そう!というのはちょっと違うのかもと思いました。
「まずは自分を満たそう」という言葉はよく聞きますが、まさにそれです。
相手をどれだけ愛そうとしても、自分の心の穴は埋まらないのです。
まず必要なのは、自分自身の恐れに気付き、向き合い、解消していくことだと思います。
恐れが痛んで、相手に埋めてもらおうとしても、それは制限時間のあるごまかしなのです。
そして相手がくれるのは一時的な鎮痛剤であって、時間が経てばまた痛くなるものです。
だからこそ、相手に尽くして楽になろうとするのは、解決策ではないのです。
相手に尽くさないことで出てくる罪悪感が出てくるかもしれませんが、それは相手への愛が傷んでいるのではなく、最初から自分が負っていた傷が傷んでいるのだと、今ならわかるはずです。
赤ちゃんの愛、通貨としての愛、無条件の愛。
私たちは、愛することを取引として強制したり要求しなくても善くなった時、無条件の愛に、自然となっていくものなのかもしれません。
むしろ、自分が無条件の愛を目指そうとすることで相手にも無条件であることを潜在的に望むのであれば、重荷ですらあるかもしれません。
私が思うのは、愛に向かって生きるために無条件の愛を崇めるのではなくて、赤ちゃんの愛だとしても、通貨としての愛だとしても、自分に正直でいられる人が、健全に過ごしているように思います。
愛とは現実を見ること。
別に、通貨としての愛で取引したって良いじゃないですか。
自分の都合で与えすぎず、受け取りすぎず、相手と対等でいられるバランス感覚は、愛する技術だと思います。
愛の営みは、心の変化を感じやすいです。
心が痛んだり、あたたかくなったりします。
だからこそ、その都度に問うのです。
「自分は今何に傷ついているんだろう」
「自分は今何に充実を感じているんだろう」
全ては実験であり、探求です。
愛に向かう皆様は、今どんな愛情を持っていますか?